アンコール=ワット③
寺院の境内にはあちこちでサルをみかける。この地域の遺跡ではよくみかける光景である。サルはヒンドゥー教では聖獣とされている。猿の王ハヌマーンは,ヒンドゥー聖典でもある『ラーマーヤナ』でラーマ王子を助ける重要なキャラクターとして描かれている。猿が人間に仕えるという話は,『西遊記』の孫悟空や日本の『桃太郎』などにも現れるが,これらの根には仏教というよりインド由来の宗教があるのではないか。アンコール=ワットのレリーフには『ラーマーヤナ』におけるサルの王の活躍もある。あるいはあのサルたちもまた参詣者たちなのかもしれない。


アンコール=ワットに住み着いているのはサルだけではない。コウモリがいる。日が沈もうとするころ,ホテルの窓から列をなして途切れることなく飛び立っていくコウモリの大群をみた。アンコール遺跡もまたコウモリたちの住処の1つとなっている。アンコール遺跡の石材が劣化している理由の1つがこのコウモリたちの糞である。糞に含まれる硫黄やリンが酸化して石材を劣化させる。列柱の下部が細く剥がれているようにみえるのがそうである。

アンコール=ワットをはじめとするシェムリアップのアンコール朝の遺跡は,自然劣化に加えてアンコール朝の衰退とともに荒廃が進んでいく。隣国スコタイ朝(タイ)と続くアユタヤ朝との抗争,やがてシェムリアップは王都としての機能を失い,15世紀には放棄されてしまった。しかし例えばインドネシアのジャワ島の大乗仏教遺跡:ボロブドゥールのように,密林に覆われ,土に埋もれ,その存在が人々からも記録からも忘れ去られることはなかった。16世紀には現地人の案内によってスペイン人,ポルトガル人が訪れている。『西欧が見たアンコール』(ベルナール・P・グロリエ著 連合出版)には,このころ訪れたスペイン・ポルトガル人の布教活動の様子が豊富な原資料を基に紹介されている。17世紀,朱印船貿易がまだ活発であった江戸時代初期の日本人も訪れている。アンコール=ワットは19世紀,この地域に進出をはかっていたフランス人の手によって発見されるといわれるが,しかしこの発見はコロンブスがアメリカ大陸を発見したというのと同じようなものだろう。
1860年,カンボジアがフランスの保護国となる少し前,アンリ=ムオという人物がインドシナを旅した旅行記でこの寺院を紹介したのが,ヨーロッパで広まった。この旅行記は翻訳で読むことができる。(『インドシナ王国遍歴記』アンリ=ムオ著 大岩誠訳 中公文庫)
ノコールあるいはオンコールは昔のカムボジァすなわちクメール族の首都である。……当時の宏壮な遺蹟が幾つか残っているが,それらの見事な遺蹟に接したものはいずれも驚異の眼をみはりかくも素晴らしい建築物を遺すほどの文化と天稟とをそなえた強国は,その後一体どうなったのだろうと疑問に逢着する。
中にもその一つは,よく欧州の壮麗な大寺院とも比肩し得るものであって,その豪壮さに至ってはギリシャ,ローマの芸術をも遥かにしのぐものがある。それを見るにつけても,この建築物の建設者である偉大な民族の後裔が,現在堕ちている野蛮なあわれな状態には,驚き且つは痛ましい思いを感ぜずにはいられない。
バッタムバンの廃墟も素晴らしいに相違ないが,このような印象はおろか,それに近い感情すら懐くことはできなかった。
かくも美しい建築芸術が森の奥深く,しかもこの世の片隅に,人知れず,訪ねるものといっては野獣しかなく,聞こえるものといっては虎の咆哮か象の嗄れた叫び声,鹿の啼き声しかないような辺りに存在しようとは誰に想像できたであろう。
この寺を見ていると魂はつぶれ,想像力は絶する。ただ眺め,賛嘆し,頭の下がるのを覚えるのみで,言葉にさえならない。この空前絶後と思える建築物を前にしては,在来の言葉ではどうにも賞めようがないからである。
ムオの死後に刊行された彼のイラスト付き「インドシナ王国遍歴記」第18章は,アンコール=ワットについて最大級の賛辞に満ちた文で散りばめられている。細部にわたる彫刻についてはミケランジェロに比肩している。
その一方で,現在(ムオ当時)のカンボジア人を無知,野蛮,「ヴァンダルの子孫」(ローマ帝国を席巻した蛮族)として,その祖先が建設者であるとは信じられず,アンコール諸遺跡は2000年前のものだと誤解していた。
ともかくムオの旅行記を読んだフランス人はじめ西洋先進国は,アンコールの芸術に魅了された。19世紀末,フランスの植民地となるとフランスは文化的価値を認め,発掘・調査が大規模におこなった。当時のことだから盗掘・略奪も数えきれなかった。フランス文化相であったアンドレ=マルローもまたその一人であった。パリのギメ東洋美術館は世界最大の東洋美術,中でもアンコール美術のコレクションを誇るが,当初は純粋な研究・保存目的とは思えない。
フランスが去っても内戦が続いた。内戦の傷跡は,修復が進んだ今でもみることができる。壁や柱の所々に不自然に白い部分がある。新しく塗り固められたものだが,おそらく銃弾を受けた跡であろう。アンコール=トムにしろ,アンコール=ワットにしろ,戦時に城塞としての再利用は容易に思いつく。銃痕がポルポトによる聖像破壊か,遊び半分の射撃の跡か,戦闘によるものかは私にはわからない。ポルポトが率いたクメール=ルージュは,文字通りクメール人のナショナリズムが原点であったはずであり,ポルポトが政権をとった民主カンプチア(1975-79)の国旗にも,アンコール=ワットがデザインされていた。ポルポトをカンボジアのヒトラーたらしめたのは何であったのだろうか?
アンコール=ワットの環濠には,子どもたちが服を着たまま水浴びをしている。聖地であるとか,世界遺産であるとかお構いなし。遊んでいるのか,洗濯なのか,入浴なのか,いやそのすべてかも知れない。その光景はたぶんこの寺院が建てられた900年前と変わらないのだろう。

